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東日本大震災での活動記録

2011年10月12日(水)18:10:20

■一日目 宮城県 仙台

 東北労協の方々の協力により、仙台港、閖上など、宮城県の中でも特に津波被害の大きかった沿岸部を視察。

 仙台は平野であるため海岸から8~9キロ離れた部分にまで浸水があり、かなりの広範囲で被害が見られた。

 地震発生時に一時避難所となった小学校も尋ねることができた。地震発生時には小学校の体育館などに避難することがセオリーとされているが今回はそれが通じなかった。
ガラス片や校庭に植わっていた松の木とともに体育館へ流れ込んだ津波はフロアの人々を飲み込み、体育館内はまるで洗濯機のようにうずをまくような状態となった。
なんとか二階のギャラリーへ逃げた人々はどうすることもできず、逃げ遅れた一階の人々が濁流の中で息絶えてゆく様子を呆然と眺めることしかできなかったらしい。

 現在も、壁にかけられた時計は震災により電気が止まった2時47分を指し示したままである。
そして体育館内には祭壇が設けられており、犠牲者の遺物であると思われる小さな靴などがたくさん並べられていた。
どれだけの人がここで亡くなったのだろうか。案内の方の話を想像するだけでも恐ろしく、悼ましい。
 

 また、ボランティアの負の側面についても話を聞くことが出来た。

 震災からの復興はもちろん現地の方々を中心に進めていかなければならないのだが、その前提が崩れているというのである。
被災者が自立するためには、仕事を持たなければならない。しかし、今回の震災を口実にクビを切られた労働者が少なくないというのだ。
とある工場では、社員を解雇した上で復旧作業をボランティアに任せることで賃金を浮かせるなど、倫理を無視した雇用の現状が浮き彫りになっているらしい。

 ボランティアに罪はない。しかし、結果的に被災者の仕事を奪っているという現実は存在する。
復興を目指すにあたっては、行政にしかできないこと、民間企業にしかできないこと、ボランティアにしかできないことを区別しなければならない。
そうでなければ、この工場の事例のようにボランティアが被災者の自立を阻害してしまうことにもつながりかねない。
 

 

※写真はクリックで拡大します。その他の写真は「続きを読む」からご覧いただけます。
(被災地での写真撮影は現地の案内の方の許可を得た上で行っています。)


■二日目 岩手県 箱崎町

 現地に向かう道中、釜石市内を通過。そこで目にしたのは、震災と津波によりボロボロになった街並みだった。
住宅の壁の大半がはがれ、中の鉄筋やコンクリートがむき出しになった住宅や、押しつぶされ大きな空き缶のようになった自動車、海岸近くでは、三階部分に自動車が突き刺さったままの小学校もあった。とてもショッキングの一言で済ませられない光景だった。

 仙台のような平野では水が横に広く広がっていくのだが、岩手沿岸のリアス式海岸では水が一か所に集中して押し寄せるらしい。
そして今回の震災は規模が異常であったため、従来の避難所では高さが足りず被害が拡大した場所もあったようである。
とある小学校では日頃から津波に備えた訓練をしてきたが、その地震の規模から校長が従来の避難場所よりさらに高台への避難を指示し、上級生が下級生をリードする形をとったためパニックも少なく、結果的に一人も死者を出さなかったという。
避難場所を急きょ変更した校長は正しかったわけだが、結果によっては最悪の場合も起こりえた判断である。
セオリー通り体育館に避難したから助かった人もいれば、体育館にいたため津波で亡くなったひともいるように、今回の震災ではこれまでのセオリーが通用しない場面が多々あったようである。

 助かった人も助からなかった人も、各自がベストの判断をして必死に逃げたはずである。
その生死の境目が「運」だけだったとすれば、残酷としか言いようがない。
 

さて、街中の建物や自動車のほとんどに赤いスプレーで○や×の印がされている。僕たちの班を担当したリーダーさんによると○はご遺体が発見された場所、×はそのご遺体が回収された場所、その近くにアルファベットのUSがあれば「アメリカ軍が担当した」UKであれば「イギリス軍が担当した」という意味であるとのことだった。もちろんご遺体はすでにほぼ回収されている。

 もし仮にご遺体が見つかったとしても、この時期であれば御遺骨になってしまっている。しかし、現地の○や×のサインは、そこで間違いなく人が亡くなったことを示しており、バスの中から見つけるたびに、「あぁここでもか…」と思ってしまう。
初めて町に来た僕でも当然辛い。何十年もこの町を見てきた現地の人々の悲しみは想像もできない。


 残念ながらこの日は雨が降って作業ができなかったため、
すでにこれまでのボランティアが作業を終えた現場を視察し、説明を受けることになった。
この箱崎地区は復旧作業が他の地域に比べて遅れていたため、現地の方はかなりの不満をもっていたらしい。
そのためボランティアに対しても当初は閉鎖的であり、冷たい目で見られることもしばしばあったようである。
現在ではこれまでのボランティアが献身的に働いたこともあってしだいに打ち解け、声をかけられるまでになったわけだが、この関係がどうなっていくかは今後のボランティア活動次第である。

 現地の人々はボランティアの活動をよく見ていらっしゃるため、いい加減なことは絶対にできない。
ボランティアセンターに「来るな」という電話が入れば、活動をストップせざるをえない。
しかしボランティアは自分の金と時間を使って無償で働くため、どうしても「俺がやってやる、してやる」という気になりがちである。
もし自分がそう思っていなくても、無意識レベルで行動に表れることもある。そしてそれを敏感に感じ取る人もいる。


 話は変わるが「ボランティアはこうあるべきだ」という形は存在しないと思う。
ボランティアセンターにはタバコを吸う人もいれば、夜に酒を飲んで労をねぎらい合う人もいる。
笑いながら楽しみながら、ボランティアどうしの交流を深めるための場も設けてある。
「けしからん!」ことだろうか?僕はけっしてそんなことはないと思う。
現場で臭気の漂う中、暑さに耐えて一日働き、体育館で雑魚寝するのだから、楽しみを用意するのは間違いではないだろう。
大事なことは、答えが出なくてもいいし自分で納得しにくい理由でもいいから「なぜ自分はボランティアをするのか」を一度考えること。
そして現場を見で被災された方の気持ちを思いやった上で、自分にとってベストの作業をすることだと思う。
自分に厳しい修行を課すことがボランティアではないだろう。被災された方がどうなったかに目を向けることを一番にすべきである。
 


■三日目 大槌町 赤浜


今日から瓦礫の撤去に取りかかった。

 この大槌町には蓬除ナ島といって「ひょっこりひょうたん島」のモデルになったと言われる島がある。
お昼ご飯を食べているときに「ひょっこりひょうたん島のテーマ」がまる一曲チャイムとして流れたのには驚いた。

 さて、この日の主な内容としては、津波で大破した家から瓦礫を取り除き、波打った地面を整地して分譲地のような状態にする事である。
作業ペースとしては、一日の活動で一軒の家が終わるくらいなのでやはり時間がかかる。
また、水気を含んだ土の中から瓦や家の壁などを掘り出し、スコップで土をならしながら地面の凹凸を無くしていく作業はかなりの重労働といえる。当然ガラス片は散らばっていて危険だし、そこに猛暑も加わるためかなり厳しい現場になる。
そんな状況もあって「人の手ではなく、重機で一斉に整地してしまった方が早いではないか」という声が被災者、ボランティアの双方からも聞かれるらしい。

 確かに僕自身、この作業に終わりが見えないと感じる事もあったし、重機の方が作業が早いことは間違いない。

 実際にこの現場では、二ヶ月後に重機を用いての作業を始めることが決定している。
つまりボランティアは何もしなくても、いずれ作業は機械によって完了されるのだ。

 しかし、被災者の方にとってこの現場はもともと自分が住んでいた場所である。
重機で一斉に…では納得できない、人の手で丁寧にやってほしい、と思われる方も当然いる。

 そもそも家を「瓦礫」と呼ばれ、見知らぬ誰かに土足で上がられるだけでも辛いのだから当たり前の心情かもしれない。
現場からはハシやおわんだけでなく、クマのぬいぐるみのようなものまで見つかり、間違いなくここには人が暮らしていたと感じさせられた。
現場の一角には、七夕の時のものであろうか。小さな木が植わっており、鮮やかな短冊が飾られていた。
土のついたおもちゃと形の変わったお菓子が供えられており、短冊を見ると「たくやへ 今年もおばあちゃんと一緒だね たのしんでね」と書かれていた。
そんな現場であるから、煩雑に扱うことは許されない。

 ボランティアの隊長は「合理性に欠けることは百も承知。それより被災者の気持ちを大切に。」と力をこめて仰った。
一早い再建と被災者の心情。この二つはともに、ないがしろにはできない。ではどうすべきか。
最後まで僕の中で結論が出ることはなく、ひたすらクワを振るしかなかった。

 「キレイに整地できた現場は写真を撮って、持ち主の方にお届けします」と隊長。
これから寒さが本格的になっていけば、作業は難航するだろう。重機が入るギリギリまでボランティアの作業を続けるつもりなのだろうか。
震災が起ってから半年、そろそろ現場でのボランティアに引き際を見つける時期なのかもしれない。
間違いなく言えることは、今はもう、「とにかく人手が必要でひたすら作業するしかない段階」ではないことだ。
ボランティアは瓦礫撤去といった「ハード面」での作業から、被災者の精神的ケアといった「ソフト面」での支援へ比重を高めていく時期に来ているのかもしれない。
 


■四日目 陸前高田


 陸前高田といえば、「奇跡の一本松」がニュースでも盛んに取り上げられた場所である。
海岸線に植えられた7万本の松の木は津波で押し流され全滅したように見えたが、一本だけが奇跡的に残ったと言われている。

 そんな陸前高田で行った作業は「用水路のドブさらい」だった。
津波による被害を受けた田んぼには塩水が入ってしまっているため、作物、特に稲は育ちにくいそうだ。
元に戻すためには田んぼに流れ込んだ車などの瓦礫を撤去し、塩分を含んだ土の表面をさらって整地する必要がある。

 また、役所が土地使用計画を提出し、農業用地として認められなければ農業を再開することはできない。
今回はその農業用地としての条件を整えるため、用水路のヘドロをかきだすこととなった。
色々な物が沈み腐敗したせいであろうか、ヘドロは強烈な臭いを放っていて、中からはCDや瓦など何でも出てきた。
2キロほどもある長い用水路だったが、ボランティアで一斉にやれば案外片付いた。そして勢い良く水が流れ出した時には達成感があった。



 農業に限らず、被災地の産業は大変な打撃を受けているようである。

 岩手県の三陸海岸はカキやホタテなど、高品質な魚介が穫れることで有名だった。
しかし今回の震災によって、港が機能を失い、漁船を失い、養殖場を失ったため、漁業関係者は窮地に立たされている。

 漁船が無いということも大きな問題であるが、養殖に関してはさらに深刻である。
カキの養殖場は、一朝一夕にできるものではない。
出荷できるレベルになるまで最低3年はかかると言われている。
これまでのように養殖場があったならば収穫のローテーションで安定した収入が見込めるのだが、震災で全て流されてしまった場合、今後三年間は収入が得られないことになる。

 そのため、一日一食で過ごすという人まで出るほど、カキ業者しかり養殖を生業とする人たちは生活が困窮しているのだ。
寄付を募るなどしているようだが、まだまだその認知度は低いように思う。
 

 今回の震災で被害を受けた産業は多岐にわたり、倒産に追い込まれた企業も多いと聞いた。
成果がそのまま成績につながる第一次産業従事者は特に打撃を受けやすい。
行政の保護が必要であることは言うまでもない。



■五日目


この日も現場で瓦礫の撤去などをする予定だったが、リーダーの鈴木さんが隊長さんに声をかけられ仮設住宅の戸別訪問に参加する事になった。
二人一組でペアになり、一人が話をして一人が記録をとっていく。僕は初心者なので記録役になった。

 具体的には、仮設住宅を一軒一軒回っていき、世間話でもしながら体の具合などを聞くことが主な仕事で、阪神大震災で見られた、仮設住宅に住む老人の孤独死を防ぐことが目標となる。
確かに今回訪問したお宅は、お年寄りの一人暮らしや老夫婦での生活が珍しくなく、白内障を煩っておられる方や認知症の気がある方もいらっしゃったため、話していて少し心配になることもあった。
だが大半が僕たちを好意的に迎え入れてくださり、明るく、元気に接してくださった。(無理をされているかもしれないが)


三日目の活動記録でも書いたが、今後のボランティア活動は肉体労働である「ハード面」だけでなく精神的なケアなど「ソフト面」での支援が重要になってくる。
今回の戸別訪問を通して見えてきた問題もそのソフト面に直結している。

例えば、

  • 年老いた両親の介護が必要であるために、仕事を始められない若者がいること。
  • 無気力、無感動なおばあちゃん。こちらが何を言っても無表情で座ったまま「はい。そうですか。ありがとう。はい」としか言わない。認知症かもしれないし、生活できているか心配であること。
  • 買い物するにも車が無いためにタクシーを利用しなければならないこと。
  • 周りが知らない人ばかりで、寂しいこと。
などなど。

 被災者の自立に向けて、超えなければならない障害が生活の中で出てきていることがわかった。
こういった障害を取り除くためには、ソフト面での支援、すなわち住宅訪問や、「誰でも参加できるカフェ」のようなコミュニティ形成の場を作るなど、人対人のボランティアが大切になる。
「復興」が地元民置き去りでは何にもならない。地元民が中心となった復興を押し進めるためにも、自立できる環境づくりを助けることが今後重要になってくるだろう。



六日目

 この日も仮設住宅の訪問。今回は記録役だけではなく、話し役としても活動することができた。
戸別訪問の記録用紙には「健康状態」「交通手段」「以前の住居」「家族構成」などの項目があり、今後も継続的に訪問するために記録していく必要がある。

 しかしいきなり「以前はどちらにお住まいでしたか?」なんて聞くことはできないので、世間話から会話が始まって、自然な流れで聞き取りをしていくことになる。
これがとても難しい。震災当日のことを思い出し、涙を流しながら一時間半も話を続けたおばあちゃんがいたり、「早く帰ってくれ」といった雰囲気が明らかに出ている方もいる。

 メモを取りながらの会話に「調査されている」抵抗感を感じる方もいる。
だからとても神経を使う作業になる。ヘタなことを言って傷つけては…と思い、緊張して汗が止まらなかった。
休憩所で「あなたはどこから来たの?」と聞かれ「神戸です(明石ですが)」と答えると、阪神大震災のことを話され、当時何歳だったかと聞かれた僕は、2歳だったと答えた。
すると「あのときは現実味がなかったというか、この世のことには思えなかったけど、まさか自分たちの身に起るとは思わなかった。
でも、そのとき(阪神大震災)の子がこうして来てくれるのは嬉しい」と言われ、僕も素直に嬉しかった。

 聞き取りを終えた後、そのデータをパソコンに打ち込み次の訪問に活かせるように保存するのだが、涙を流しながら話をされるおばあちゃんをA,B,CでA(要注意)にランク付けし、「精神的に不安定な面アリ」と一言で記録することもある。
仕方が無いとはいえ、これでは次の人が訪問する時にわかりにくいし、おばあちゃんが自分に一生懸命話してくれた話がリアルに残らないことを寂しく思った。
 

 戸別訪問のときには、全国から届いた救援物資を段ボールで運び、住人に好きな物を選んでもらうなどした。
中には化粧の試供品やパックご飯などがあり、提供者のメッセージが貼付けてあったりする。
JA和歌山が送った梅干しが大変喜ばれていたことと、「はばたん」のタオルが大量に入っていたことは、なんとなく嬉しい。

 こうして地道な支援活動が続く中、震災からもう半年が経過した。
震災直後の「自粛ムード」はその後、「いつも通りの生活をすることが大切」という風潮に取って代わった。
もちろんこれは正しいことだと思う。しかし、「いつも通り」とは「震災を忘れる」ことではない。

 全国で、特に関西圏で震災への関心が薄れつつあると僕たちのリーダーの鈴木さんが言っていた。
仕方がないことかもしれないけれど、やはりそれでは寂しい。
そして震災を忘れるどころか、「被災者は甘えずに早く自立すべき」という論調の人までいる。
そんな人は現場で働いたことがあるのだろうか。確かに自立は急ぐべきであるが、先ほど例に挙げたように、仮設住宅では両親の介護のために仕事に就けない人がいること、そもそも企業が少ない東北では仕事に就くこと自体が難しいこと、役所がなかなか土地使用計画を出せないこと、船などの道具がないこと…。
などなど様々な自立阻害の要因がある。

 世論に影響を与える者は、これらのことを理解した上で発言しなければならないはずである。
自分の経験外のことを他人に語ることは危険である。被災地を自分の目で見ていないのに被災地を語ることは望ましくない。
しかし、想像力を働かせる必要はある。「現地で何が起っており、何が必要とされているのか」自分で考えなければならない。
そのときに僕の記録が少しでも役に立てばと思う。
そして僕自身、今後も継続して支援しなければならないと思う。

 一回現場を見てきただけで全てをわかったような気になってはいけないし、周りから「良くやった」と言われるのはすっきりしない。
学生がちょっと現場へ行って「勉強になりました」とか言って帰ってくること、そしてボランティアの経験を自分のステータスのようにしてしまうことは、被災者の方に対して失礼きわまりない。
被災者の方々は学生に勉強をさせるためにいるのではない。生活がかかっている方ばかりである。
学生がボランティアに積極的に参加することは良いことなのだろう。
しかし、「なぜ、自分はボランティアに行くのか」そして「何を見てどう思ったのか」を自分で考えることが大切だと思う。
そうでなければボランティアは善にも悪にもなり得る。そのことを忘れてはいけない。



七日目



最終日は宮城の名取市沿岸を視察。もう重機による整地が進んでおり、雑草が生い茂って田んぼや人家があったとは思えないほどだった。
きっと初日にこの場所を見ても、被害の甚大さはピンと来なかったと思う。それくらいキレイさっぱりといった感じだった。


 視察の後は仙台観光。
バスに乗って青葉城へ。
ずんだ餅シェイクを飲みつつ、正宗公の騎馬像にテンションが上がる。
像のある場所は展望台になっており、正宗公が仙台を見下ろすようになっている。
大きな震災や津波があったとは思えないほどに仙台の街並は美しく、海は穏やかだった。
駅に戻るとこの日はジャズフェスティバルが行われていたこともあり、街は賑わって、ギャルがキャーキャー言いながら買い物していた。
東北名物を売っている露店が出ていたので、夕飯に山形の芋煮、宮城の牛タンをおいしくいただきました。
僕らを東北で面倒見てくださった方々は皆、とても優しくて、ボランティアとか抜きで「また来たい」と思えた。
それに自然が豊かで星空がキレイに見えたことも印象に残っている。
初めての東北は思いがけない形になったが、とても魅力的だった。イイところです。ぜひ他の人にも観光に行ってほしい。

 そして夜行バスに乗り込み、仙台を離れ、福島から山形へ、そして北陸自動車道から滋賀、京都、大阪へと帰ってきた。
メンバーと別れ、電車に乗ると、新快速から見えるポートタワー、須磨の海、明石海峡大橋を見て、帰ってきたな~と実感。
写真でしか見たことがないけど、神戸の復興もきっと大変だったんだろうなぁ。
東北もいずれは…とかそんなことを思っているうちに明石駅から明石城西高校へ到着。
そして総会。
同級生や後輩、先生に会えて楽しかった。本当に母校の存在というのはありがたいなぁ。
と実感するのでした。


※ 被災地での写真撮影は現地の案内の方の許可を得た上で行っています。



25回生 木村 貴幸
HP管理

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